院長エッセイ集 気ままに、あるがままに 本文へジャンプ


洋食鉄板焼「しずえ」


福岡・中洲天神のデュークスホテルは英国風の落ち着いたビジネスホテル。オークブラウンに統一された内装。過不足のないホスピタリティ。ベルマンの「お気を付けて行ってらっしゃいませ」の声に軽く会釈をして、二月の早朝、寒空に首をすくめながら玄関を出た。少し見上げるように振り返り、今後贔屓にしようとほくそ笑んだ。ホテルの面する大通りの横断歩道を渡っているとると、一緒に研修会に参加しているY医師が、後ろから追いついてきて、話しかけてきた。
「すっかり、跡形もなく片づいてますね」
「うん」曖昧に返事をする。
横断歩道の途中から、私も彼の指さす場所をじっと見ていたのだ。
 あれは夢だったのだろうか? はにかんだ、そして寂しげなシェフの笑顔がワインの抜けきらない脳裏をよぎる。

昨晩のことである。
「夕めし食いに行きませんか?」
Y医師が屈託なく聞いてきた。フライトの前に軽く済ましていたのだが、小腹もすいてきた頃なので、二つ返事でホテルを出た。長い横断歩道を渡りきった所に屋台が二軒。
「ラーメンで軽く済ませようか?」そう言って右側の屋台に入ろうとして立ち止まる。隣の屋台が少し、いや大いに変だ。パッと見はごく普通の屋台なのだが、フランスのトリコロールがぐるりを囲み、「洋食鉄板焼しずえ」の看板が青白く光っている。洋食鉄板焼き?しずえ?フランス料理?このあまりのミスマッチに二人は顔を見合わせた。
 「面白そうですね。入ってみますか?」。Y医師は興味津々。はずれたらはずれたで何かの話題にはなるだろう。怖い物見たさでのれん(フレンチでのれん?)をくぐった。カウンターの向こうには屋台のおやじではなく、ちゃんとした格好をしたシェフが「いらっしゃいませ」と媚びた笑顔で迎えた。客はわれわれ二人。店内は外見の奇抜さはなく、よくある屋台そのまま。しかし、壁の様なところに立てかけられているメニューのお値段はどれも結構なお値段で、屋台の常識を越えている。下ろしかけた腰を再び浮かして出て行きたい衝動をどうにかこらえた。
「ついさっきまで満席だったんですが、ちょうど空いたところです。へへへ」
私の心の動きを鋭く察知したのか、シェフが気まずい沈黙を取り繕った。眉につばを付ける代わりにぽりぽりとこめかみを掻いて、
「屋台でフレンチとは珍しいですね」と軽薄な笑いで答えた。
「とりあえずビール。今日のおすすめは何ですか?」とY医師、ナイスフォロー。
「今日はいいアワビが入ってます」
「じゃあ、それお願いします」
「どういう風に料理しましょうか?」
「お任せします」。
一品だけ注文して、そそくさと出て行こうかともくろむ私は、ぞんざいに答えた。しばらく、Y医師と近況などを話していると、「お待たせしました、どうぞ」と差し出されたアワビのソテー。私は我が目を疑い言葉を、いやつばを飲み込んだ。一流フレンチレストランもかくありなんと思われる盛りつけ鮮やかな一枚の皿。食べる前から、これは絶品のソテーだと直感した。哀愁を漂わせて後退しているシェフの額の生え際が、裸電球に照り返し、「どうだ」と言わんばかりにキラリンと輝いた。一口、口にする。歯ごたえのある柔らかさ。タマネギのエキスとセロリとレモンの風味。アワビのうまみが上品に引き出され、白ワインでの仕上げもそつがない。このシェフ、ただ者ではない。私同様に目を丸くしているY医師に「何が、とりあえずビールだ」と心の中で悪態をつき、自分のことは棚に上げてチラと睨んでから、「ワインとかも置いているのでしょうか?」と尋ねる。
 「種類は少ないですが」と差し出されたワインリストは、一流ホテルなみ。
「ハウスワイン(店がお勧めする安くておいしいワインで、グラスで注文できる。ハウスワインを聞けば、その店のワインに対する思い入れがおのずと判明する)は何ですか?」
という私の問いをさりげなく無視して、「これがお勧めです」と奥から(屋台の裏にワイン用のクーラーボックスがあるのだろうか?)出してきたのは、コート・ド・ボーヌ産の白ワイン。ボトルで七千円。屋台で七千円のボトルワイン?どうも医者の懐具合を過大評価しているようだ。「他のレストランでは、倍の値段です」というシェフの言葉を話し半分に聞いて、毒を食らわば皿までの心境で注文する。が、しかしこのワインは、モンラッシェばりのリッチなアタックと長い余韻。アワビのソテーとのマリアージュ(ワインと料理の相性)は完璧。「やられた」と思った。この不思議な屋台のフレンチに心酔した私たちはさらに幾つかの注文をし、それがまたそれぞれに素晴らしい。途中入ってきた夫婦は、やはり通りすがりで、我々と同様に最初はとまどっていたものの、すぐに場の雰囲気にとけ込み、自己紹介もそこそこに、旧知の友人の様に話が盛り上がった。本格的フレンチと本格的屋台のいいとこ取りだ。
 「恥ずかしながらまだ独身で・・・」というシェフの言葉を受けて、酔った私は無遠慮にも「じゃあ、お店の名前「しずえ」って言うのは昔の恋人か何かですか?」と尋ねた。シェフはちょっと照れたようにうつむいて、「んー、ご想像にお任せします」と唇だけで笑った。トリコロールの隙間から冷たい夜風が吹き込んで、揺れた電球の灯りがシェフの顔の陰影を一瞬深めた。
 人は誰しも、触れられたくない過去があって、しかしそれが生涯をかけて大切にしたい思い出でもあったりする。わたしは失礼な自分の質問に罪悪感を感じながらも、シェフの人柄や彼の作り出す料理の本質に触れたようで、嬉しかった。生きることの喜びやつらさ。日々暮らす中での希望と諦観。屋台でのフレンチ。ミスマッチなお店の名前。洋食鉄板焼「しずえ」には一晩では語り尽くせない一人の男の半生が詰まっているのだ。

 横断歩道を渡り切った時に、Y医師が抑揚のない声で言う。
 「それにしても、昨日のフレンチ屋台は正解でしたね」。
 「正解も正解、大正解だ!」。力強くうなずいたものの、屋台のあった場所はちりひとつなく、昨夜の昂揚は陰も形もない。やはり夢であったのかと思い始めた矢先にビル風が吹いて、その冷たさに背を丸めポケットに手を入れた。指先にかさりと触れる物があって、取り出すと「しずえ」に続いてシェフの携帯電話の番号が書かれてあった。
 「いつも混みますので、次いらっしゃる時はご予約をお願いします」。冗談とも本気とも判断しかねる笑顔で帰り際にシェフが渡してくれた物だった。その紙切れを財布の中にしまい直して心の中でつぶやいた。「きっとそうしよう。夢の続きを見るために」。


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